てぃおるの妄想録。

妄想・思考のはけ口。書きたいことをうんざりするほど書きたい。

ねえねえあのね。

 

ねえねえあのね、わたし最近、すっごい愛されてるなぁって感じるの。

ほしいものはなんでもくれる。おなかがすいたらごはんは作ってくれるし、眠いときは甘えさせてくれるし、行きたいところには好きに行かせてくれる。それでいて、いっつも頭を撫でられて、何をしても許してくれるし。

 

 

わたしはあなたに何にもしていないのに、なんであなたは、わたしにこんなによくしてくれるの?

 

 

ねえねえあのね、わたし最近、すっごい愛してないなぁって感じるの。

ほしいものはなんでもくれるのに、おなかがすいたらごはんを作ってくれるのに、眠いときには甘えさせてくれるのに。それでいて、何をしても許してくれるのに。

 

あなたはわたしになんでもしてくれるのに、なんでわたしは、あなたにこんなに何にもできないの?

 

愛してるとか愛してないとか、そもそもわかりえないことなのかもしれない。だって、違うから。わたしとあなたは、違うから。わたしはわたしなの。あなたはあなたなの。あなたはわたしで、わたしはあなたではないの。

 

ぽかぽかお天気おなかいっぱい、それで幸せ。それしかあなたはわかってくれない。機嫌が悪かったら目をおっきくして、低い声で怒る。それも、本当にわかってくれてるかわからない。

 

「わたし怒ってます」なんて、言えないんだもん。だって、わたしとあなたは違うから。

 

ほしいものはなんでもある。でもそこに足りないのはわたし。応えられないわたし。どこまでいっても、死んでも、わからない。

そう思い込めば、少しは開き直れるのかな、わたしとあなたは対等じゃないって思い込めば、少しは楽になれるのかな。

 

 

わかったらいいとか、わからなかったらだめとか。そんなことすらわからないし、そんなことがわかったらいいのか、そんなことすらわからなかったらだめなのか。でもわたしはそんなことすら考えないし、一緒に考えることもきっとないよね。

 

 

それでもいいやって思えたら、わたしはちょっとだけ楽かも。いい一日が、ちょっとだけいい一日になる。

                                                    

 

 

っていうエッセイ?ポエム?短編小説?でした。

今までの思考系とはまた違う文章にも触れてみたいと思って、本当に僕の「なんとなく」という感覚だけを頼りに、書いてみたって感じです。

また書くかもです!

 

てぃおる

 

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「私」の目に映る世界

 

「#ファインダー越しの私の世界」

 

きっとどこかで見たことがある言葉であろう。

 

このハッシュタグInstagramTwitterなどではもはや定番のタグになりつつあると思うが、実際Instagramでは投稿数がすでに1000万件を超えているらしい。
ハッシュタグの中ではかなりメジャーなものになっているタグである。

 

そもそもファインダー越しの私の世界とはどういうことなのかというと、一眼レフカメラなどに存在するファインダーと呼ばれる撮影する対象を覗く画面のようなものを通して被写体を写すことから、「そのファインダー越しに見える私の世界はこのように広がっているんだよ」ということを伝えたいハッシュタグである(と思われる)。

 

 

そんなハッシュタグについて、僕が以前から思っていたことがある。もちろん今回も本当にくだらないことなので、考えすぎなのかもしれないが、それでも僕の中にはある一つの疑問が拭えずにいる。

おそらくこのハッシュタグの文脈から推定するに、「私という人間の目が見ている世界」と「私という人間の目がファインダーを通して見ている世界」は異なっているということが考えられる。というのも、もし異なっていないのであれば「私の世界」は「私の世界」であり、ファインダーを通そうが通さまいが「私の世界」は「私の世界」であるはずである。そのはずが、実際は「ファインダー越しの」という形容詞が付随し、私の世界を修飾していると考えれば、私の世界のベクトルは同じでも、少なからずなにがしかの修飾、あるいは脚色がこのファインダーによって行われているということである。

果たしてそうなのかどうかはおいといて、一体この「ファインダー」はなんなのかについて考えること、そして「#ファインダー越しの私の世界」に対する雑然とした思考をしてみたいと思う。

 

 

他人事のように書いたが、実際僕もカメラを構え、写真を撮るカメラ好きの端くれなので、ファインダーを覗く瞬間のワクワクや、写真が浮かび上がる瞬間の高揚感に関しては共感せざるをえない。その点において、ファインダーという一見するとただの画面であるはずのものは、ただならぬ何かをカメラマンにもたらしていることは間違いない。

しかしながら、僕が疑問に思っているのは、「ファインダー越しに私の世界は変わる必然性はあるのか?」ということである。いや、逆に僕の中では、たとえファインダーを覗く瞬間がワクワクしたとしても、僕の目は僕の目であると思っているし、僕の世界はたった一つであると思っている。だからこそ、ファインダー越しであろうと、メガネ越しであろうと、僕の世界は変わらない。僕の目には、本当にそのように見えているはずで、それを信じたいはずで。僕の目は僕のものだ。

 

                                                    

前置きはこれくらいにしておいて、本題にふれたいと思う。

 

 

どうして、カメラを構えるのだろうか。

「素敵な景色を写真に収めたい」

「最高の瞬間をおさえたい」

「思い出を共有したい」

「インスタで評価されたい」

きっと他にも写真を撮る動機なんていくらでもあるし、どんな動機であれ、それらを叶えることができるカメラという機械は素晴らしいものだ。その中で僕ももちろん、確固とした動機がある。はじめはカメラなんてただいい画質で撮れるしなんか背景がボケるからいいじゃん!くらいにしか思っていなかったが、写真を夢中で撮っていくうちに、ある新しい動機に気づいた。

 

 

「僕は、僕の目を信じるためにカメラを構えているんだ」ということ。

 

先ほども触れたように、僕の目は僕の目であり、そこから見える景色も事物も人も、どれも僕の目以外では捉えることができない。それがファインダーを通そうが、何をしようが変わることはない。僕だけの目だ。

しかし、僕は僕自身を信じることができないことが多い。

「今見たものは本当にそれであるか?」

「お前の目は本当にその世界を捉えているか?」

もしかしたら、幻想なんじゃないか。そうして不安だから、僕はカメラを構える。

僕の目を僕自身が信じることができるように。

見えたものと記憶を結びつかせ、できる限り「これだ!」と思える世界を信じる。その世界に嘘偽りはないはず。たとえ何があっても僕の世界は変わらないという前提さえ信じ抜くことができれば。

 

だから僕は、ファインダーを覗く前にその対象を肉眼でまず観察する。それこそが、カメラを構える目的であり、写真に残す目的であると思っている。

「僕が見てきた世界は間違いなくここにあった」という証を振り返るため。僕の目をこれからも僕が信じていけるように、シャッターを切る。

 

「ファインダー越しの」私の世界を「私の目に映る」私の世界に近づけていく。

 

それこそが僕がカメラを構える目的。

 

てぃおる

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洋服に感情を。彼に光を。(後半)

 

僕が今実感している奇妙な感情は一体なんなのかは、おそらくすぐには明らかにならないだろう。というより、その感情そのものよりも、それが僕に対して何をもたらしているのかについて考える、もしくは僕自身がその感情をどうして生み出しているのかについて考えることの方が先決である。

 

これについて考える前に、まずはある友人のある話について一応の結末をつけなければなるまい。

 ↓前半の彼の身に起こった出来事についてはコチラ↓

thiothiosaurus.hatenablog.jp

 

果たして、彼は救われたのだろうか。

                                                    

 

 結論から述べると、おそらく彼は救われた。他でもない、まさか自分が悩ませられたあの洋服たちに。

 

 忌々しい。

 価値観の津波に飲まれていた彼だが、ある時彼に転機が訪れる。それは彼が19歳になったころ、突如として彼の目の前に現れる。彼は洋服の事が嫌いになりかけていた。モテるため、コンプレックスを隠すため、かっこよくなるため、男らしくなるために身につけていた洋服は、かえって彼のアイデンティティの根幹を揺るがし、正常な自己表現としてのあり方を破壊してしまったからだ。「なりたい自分」になるための洋服だったのに、なりたい自分と現実とのギャップ、そしてまた、本当の自分とは果たしてなんだったのかという疑問が彼をぶん殴り、加えてそれとは関係のない文脈での経験や周りの姿を勝手に結びつけ、更に劣等感を増幅させていた。

 

 

「これがモテる」

「このアイテムが流行っている」

「この服はダサい」

 それが正しいと思っていた。それにすがれば俺はかっこよくなれると思っていた。なのに誰もわかってくれなかった。誰もそんなことを気にしなかった。俺のことを見てくれる人は洋服では生まれなかった。それもそのはずなんだ。本当にモテる人、本当にイケてる人はそんな不特定多数の愛情や羨望の眼差しにはそもそも興味なんかない。あいつらはだからかっこいいんだ、それでいて特定のなにかに対してヘイトをするわけでもないし、他人は他人、自分は自分ということを本当に理解している、だからかっこいいんだ。

 でも俺は、あいつらなんかにはなれない。本質はもっと複雑なんだきっと。

 

 彼はそうして洋服を憎むようになった。勝手に自分の中で作り出した体系により、洋服によって理想の自分になり、コンプレックスを克服することなんて妄想なんだ、あれは生存者バイアスにすぎず、ほとんどの人間はそこで理想を求めるのを諦め、心の中に理想を揉み消して過ごしているだけなんだ、と。

 

 そんな彼の、ある19歳の時の出来事である。彼はいつものように街へ繰り出した。相変わらず街中は活気づき、自らの内面とは対照的に、光り輝く。彼にとって洋服はもはや嫌いだったが、関心がないというわけではないし、大学生にとって私服がないということは死活問題だ。必要とあらば買わなければならない。それ以上に今まで必死になって集めてきた洋服に関する知識や経験を無駄にしたくないという、謎のケチ意識が頭の片隅にあったことも否めない。なのでいつものように、無難で低身長にも似合うような、これまでの価値観と変わらない洋服を探していた。

 

 そうして突然、「ヤツ」が彼の目の前に現れた。品がなさすぎるほど青くて、薄汚れていて、重たくて、到底今の価値観では考えられないような、かっこ悪くて、ダサい洋服。男であったら幼少期に着たかどうかくらいの、ダサい代物。俗に言う、「オーバーオール」である。おそらく普通の人はスーパーマリオが着ているくらいしか印象がないだろう。彼はそれを一瞥し、「なんてダサい洋服だ、こんなもの着れる人なんて相当おしゃれか変態くらいだろう」と心の中で蹴散らした。店をあとにし、また普段通り洋服を探す。しかし、どこかにひっかかりがある。なんだこの気持ち悪さは。今まで選んでいた好みの洋服が、まるでくだらないものかのように見えてくる。それどころか、今度は頭の中をあの薄汚いオーバーオールが埋め尽くす。

 なんなんだあれは、イラつくな、俺があんな個性的な洋服着たらダメに決まってるだろう、低身長なのが余計に露呈して余計子供っぽくなってしまう、俺はそんなコンプレックスをさらけ出す人間にはなりたくない。そもそも誰も俺のことなんて気にならないんだから、個性的な洋服なんて着たところで時間と金の無駄だろ!

 

……

……

 

……いや、待てよ。誰も俺のことなんて気にならない?

 

 

 彼は足早に先ほどの店へ戻った。そして他の今までの商品には目もくれず、一気にあの薄汚い青臭い作業着を手に取り、試着室のカーテンを閉めた。もはや着方すらわからないようなそのゴミ同然の洋服(その店は古着屋だったらしく、後で彼から話を聞くに、古着というのは高級ブランドやヴィンテージのつく商品でない限り買い付けの値段がかなり低いのがほとんどだそうだ)を無理くり着てみた。

 意外なことに、彼の心に沸き起こってきたのは、恐ろしいまでの安心感だったのだ。彼は半ば投げやりにそのオーバーオールを着た。どうにでもなれという気持ちで。それがかえって、彼に安堵をもたらした。

 

 実際、オーバーオールは子供らしい印象を与えてしまうし、カジュアルすぎるがゆえに落ち着きやシャープさは失われる。 しかし、彼は元来低身長だった。彼は元々、子供っぽかった。周りからはガキだと揶揄されながらも、そんな素直でまっすぐな感情を嫌いになれない友人がいたことも否めない。元から彼は、落ち着きなんてものはなかったのだ。その時の感情を今思い出そうとしても難しいが、言葉に思い起こすと「あぁ、俺が求めていたものはこういうことだったのか」ということだと彼は語る。

 つまり、似合う似合わない、ダサいダサくないという観点ではなく、内面から見て「自分らしいからしくないか」ということであったらしい。それからというもの、彼はその感覚を頼りに今まで持っていた服をほとんど捨ててしまったそうだ。自分の感情が洋服に灯っていたかどうか、その洋服は自分たりうるかという観点に沿って、ほぼ衝動的に捨ててしまったらしい。もったいないと思うかもしれない。確かにそうだ。

 しかし、彼はそれによって呪縛から解放された。周囲の価値観のがんじがらめで勝手に生み出していた鎖を断ち切り、彼自身のアイデンティティに気づくことができた。自身を承認することができた、許すことができた。自分に自信が ”モテる”ようになったのだ。

 

 それから彼がかっこよくなったとかおしゃれになったとか、モテるようになったとかそんなことは正直確かめようがないし、これから先もきっと彼の周りは彼のことなどどうでもいいのだ。ただ彼はそのどうでもいいに対してさえどうでもいいと思えるようになった。自分が本当に大切にすべき価値観と、その差異に気づくことができた。

 そう、彼は救われたのだ。あの忌々しい洋服に。かっこいい自分から、「ただの自分」へ。

                                                    

 

結局この話を通して、僕が何を伝えたかったのかというとあまりわからない。しかし僕個人としては、この価値観の鎖から解放させてあげられる人がいれば解放させてあげたい、助けてあげたいという気持ちである。ただ現実はそううまくいかない。(と、彼も散々わめいていたが。笑)そんな洋服という「道具」に対するある思考の中で生まれた奇妙な感情である。僕は洋服は道具ではないと断固して主張したいが、道具的な機能もゼロではない。ただ、洋服は情緒の発露であり、あなた自身であるということは間違いない。感情を失った洋服には、彼のように自らの劣等感を増幅させかねない危険性がある。

 

コンプレックスなんて隠さなくていい、どうせ誰も見てないんだ、たまに自分を気にかけてくれる人が、自分の感情に、情緒に気づいてくれれば、それでいいじゃないか。

「それでいいよ」、そう言える人間に僕はなりたい。

 

 

そんな、あるオーバーオールという薄汚い古着をめぐる、ある原田透(はらだとおる)という低身長の男の、ある19歳のころのお話である。

 

てぃおる

 

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(この写真あげるの相当恥ずかしかった笑 もっとまともな写真にすればよかった、、)

 

洋服に感情を。彼に光を。(前半)

僕は最近、なかなかに奇妙な感情の中をさまよっている。僕のこの感情がなんなのか、いまいちわかっていない。けれど僕にはこの感情は無視することのできないものである確信だけはある。今わかっているのはそれだけ。たったそれだけ。

 

……まあここではあえて伏せておこう。

 

僕が好きなものについて話題をあげるとしたら、だいたい決まって言うのは、「洋服」「写真」「パスタ」「言葉」である。

 

その中で僕が今回話したいのは、ある洋服にまつわる、ある友人のある話。 

                                                   

 

 彼は生まれてこのかた、洋服について考えることなどなかった。高校に入学するまで、親から買ってもらった洋服を身につけるばかりで、自ら洋服を求めに街へ繰り出すことなどなかった。いや、いったいどうして、そんなものに考えを巡らすのだろう。考えるだけ時間のムダじゃないか。金のムダじゃないか。まして俺は、そんなことよりも部活に時間もお金も投資したいし、どうせ同じお金を使うなら友達と映画を見に行ったり、テーマパークに行ったりしたほうが楽しいじゃないか。

 

 そんな彼は高校に入ると、ガラリと考え方を変えた。彼は元来低身長だった。所詮彼のようなひねくれ者でも、結局幸せになりたいという気持ちからは逸脱することはできない。街を見渡せばあふれ返る暴力的なまでの笑顔、そして素敵な洋服に身を包み闊歩するカップルや家族。彼と彼らとの間には決定的な何かがあることに、彼は気がついた。

 俺には何が足りないんだろう。身長?外見?能力?いや、能力でいったら大して変わらないはずだ、じゃあ自信か?いやでも俺にだって得意なことはあるし、みんななんて欠点だらけじゃないか。俺に比べたら大したことないやつらばっかりだ、しょうもないやつらばっかりだ。

 

 彼は洋服を選び、身につけることにした。心のどこかで、自分がダサいことに気がついたからだ。自分はひねくれ者だと斜に構え、全ての事物に否定的な態度を示し、赤いものを青いんだと主張するその傲慢さに。彼の目は青かったのだ。洋服を身にまとうことで、彼自身はかっこよくなれる、幸せになれると直感で気づいたのだ。まるで何かに取り憑かれるかのように、ファッション雑誌やインターネットの記事を見ては、「モテるための秘訣」やら「低身長を隠す技」を体に染み込ませていった。

 

……つもりだった。

 

 そうして彼は、人の目を更に気にするようになった。もともと劣等感の塊だった彼は、高校に入るとその体積を更に大きくさせていった。大きな挫折を経験し、彼は彼のままではいられなくなった。このままでは彼は、自らの劣等感を誰かにあてがうか、それを消化する術を身につけなければ、どうにかなってしまいそうだった。

 なんでみんなあんなに幸せなんだ。俺は一体どこで報われればいいんだ。何にも生み出せていない。結果も実績も、センスも、俺は持ってない。持ってるのはこの劣等感だけだ。これをこのまま他人にぶつけて、煙たがられる人生は嫌だ、こんなダサい自分は嫌だ。

 他人に承認されることというのは、えてしてその本来の目的を失うことがある。承認とは存在承認、結果承認、事実承認のように様々な形態がある。本当は認められた上で自分が満足することが目的であるはずなのに、そもそも劣等感が強く、自己肯定感の低い人間に対しては承認そのものは効果的ではない可能性がある。それに彼は、気がついていなかった。

 

 そうして彼は、洋服の印象を改善することで、一時的な満足を得た。社会の価値観を取り込み、あたかも自分がその価値観を生み出し、それによって人生を変えたかのような幸福を感じたのだ。これだけは間違いない、と彼は話す。

 やっぱり俺に足りなかったのは手段の知識だけであって、根が悪いわけじゃないんだ。俺もみんなみたいにかっこよくなれるんだ。なんだ、簡単なことじゃないか。俺だってモテるし、俺だって幸せになれる。

 

 しかし、その幸福的感情は、そう長くは続かなかった。

周りが飽きたのだ。その彼の言動に。彼の洋服への執着心に。もういい、うるさい、どんだけ偉いんだお前は、お前なんて所詮チビだろ。世間は想像以上に彼のことなんてどうでもよかった。彼が洋服のことを気にかけるようになってからモテるようになったかどうかなんて、どうでもよかった。実際、その一時的充足はむしろ彼を苦しめた。好きの反対は嫌いではなく、無関心とはよく言ったように、彼の元から、関心の波が音も立てずに引いていくのを、彼は見守るしかなかった。

 そうか、俺は結局悲劇にすら語られないような冴えないモブキャラなんだ。俺が大舞台のステージにあがることは許されない、誰も興味がないからだ、金にならないからだ、地球にとっては空気として存在していればいいわけであって、俺自身が幸福になることは必要ないんだ。必要とされていなんだ。

 

 そうして彼はまた、大きな挫折を経験した。

 誰も俺を相手にしてくれないなら、じゃあ部活で頑張ればいい。私服をいくらかっこよくしたって、内面がスポーツマン的でなければ、きっと周りからしたら汚い人間なんだ。そうだ、俺には部活があった。これさえ頑張れば、もしかしたら報われるかもしれない。なんで今までそんな簡単なことに気がつかなかったんだ。

 

 しかし、彼の決意に対して返ってきた贈り物は、あまりにも残酷だった。

 彼はレギュラーにはなれないまま、部活を引退していった。

 

 

 大学生になると、彼は頑張る行き先を見失った。勉強もほどほど、サークルには入りそびれ、文字通り「大学生」をやっていた。となると彼は暇だった。暇になると憂鬱になる。今まで部活という枠組みに組み込まれることで自己の安定を保っていた身としては、よりどころのない生活はより一層の空虚を生み出し、自己について向き合わざるをえなくなる。忙しさだけが彼にとって気を紛らわす手段であり、その余白は彼にとって苦痛だった。誰か俺を助けてくれ、こんななんの取り柄もない俺だが、助けてくれ。

 今までの自分とは明らかに違うことに、彼は気がついていた。周囲の価値観を羨み、それに接近することで承認欲求を満たしていた彼は、今や周りの価値観に合わせることに疲れていた。かっこよくなることに疲れていた。そんな自分がダサくて仕方ないことなど、実際はとうの昔に気がついていたはずなのだ。自分はかっこよくなんかない、なれるわけもない。自分は自分、他人は他人だ。でも素直なところだけは、昔から変わらない。俺はひねくれ者なんかじゃない、本当の本当に素直なだけなんだ。

 俺はかっこよくなりたいんじゃない、モテたいんじゃない、奇を衒いたいんじゃない、ただ、自分のことを許してやりたいだけなんだ。だから誰か助けてくれ、俺のことを頼むから許してくれ。

  

 

 彼は元来低身長だった。それがコンプレックスだった。低身長は幸せになれないと思っていた。ある時親を憎んだこともあった。しかし、親に対してのその八つ当たりはあまりにも理不尽だし、あまりにも矛盾した自己否定につながりかねないということには気がついていた。そんな低身長を気にする自分もいつの間にか嫌いになっていた。許してやりたいのに、理想と現実とのギャップに襲われ、彼の感覚はまた麻痺をする。素直な心を現実が汚す、周りの目という見えるはずのない、関係のない幻覚が彼の心を更に汚していった。彼自身が悪いのでも、他者の存在が悪いわけでもない。

                                                    

 

僕はもしかすると、この幻覚に憤りを感じているのかもしれない。彼のことを考えると、彼を救う方法は他者が存在を承認することだけでなく、彼自身が自らを承認することが必然になってくるからだ。周りの価値観、現実とのギャップ、そんなものはモラトリアム時代を生き抜く学生としては衝突しても仕方のないこと。その問題そのものは、存在価値がある。これについて考えることがない、この概念自体が存在しない社会のデザインは、現在の共同体に生きる個人を考慮すれば本質的には不可能であるからで。問題は彼が自信をモテず、彼自身が救われないことである。

 

彼を救ったものはなんなのだろうか、いや、そもそも彼は救われたのだろうか。

 

てぃおる

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かわいいは正義?

かわいいものって最高だよね。かわいいもの大好き。

いや、いきなり何を言うんだ気持ち悪いと思うかもしれない。けれど何をどう思われようと、僕はかわいいものが大好きだ。

 

そう考えていたのは「かわいいものは正義である。かわいいことは無害であるし、かわいいものが存在するだけでみんな幸せじゃないか。」という理論(?)に基づいていたからというか、とにかく自分にとって脅威にならないから、これほどまでに好きになっていたのかもしれない。

 

これだけは真理だ。かわいいものだけは正義であるべきなんだと思っていたある時、友人とこんな話をした。

友「◯◯っていう女優別にそんなかわいくないよな」

僕「いや、めっちゃかわいいじゃん!逆にどの辺がかわいくないのか教えてほしい」

友「どこがかわいいとかじゃなくて、普通に好きじゃない」

僕「好き嫌いの問題じゃん。なら普通に考えたらかわいいんでしょ?」

友「いや、かわいいも好き嫌いの問題やろ」

 

こんな他愛ないもない話ならよくあることだろう。それこそ、女優に限らず例えば某アイドルグループの登場などによって、ある集団の中で誰がかわいくて誰がかわいくないという議論は世の男性はうんざりするほどやってきたし、(実際こういう議論は主体が女性である方が闇が深い)あるコミュニティの中で誰彼はかわいいと序列をつけてしまうことは、どうしても起きてしまう。

 

しかし、僕はこれ自体があまり好きではなかった。「◯◯は別に言うほどかわいくないよね」「××の彼女なんか幸薄いよね〜」という、悪気はないにしろ出てきてしまうこれらの言葉に、僕は辟易していた。

 

それは上に僕が掲げた「かわいいは正義である」と信じている真理に基づいているからである。その存在が本当にかわいいかどうかは別として、かわいいというラベルによって傷つく人は誰もいない。逆に、上の場合彼女を悪く言われた××も傷つくだろうし、その彼女もそれを風の噂で聞いたら悲しむだろう。

傷つかない人もたまにはいるらしいが、そんなの日本くらいだ。それを笑うのが日本の文化だ。それもそれで僕は別に良いことだとは思う。日本人がそれに疑問を感じるのは悪いことではないが、外国人が疑問に思うのは、それはそれでおかしなことだと思う。

 

話を戻すと、僕はつまり「ある事物をかわいいとラベル付けすることによって誰かが被害を被ることはないし、逆に何かをかわいくないと否定することで誰かが傷つくのであれば、そんな無駄なことをするべきではない」ということを訴えたいということだ。

 

実は上の話をした友人とは、このあとこの私論についても議論を交わすことになる。

 

結論から言うと、どうやらかわいいは正義」 ではないようだ。順を追って説明する。

まず、僕が上にあげた「かわいいというラベルによって傷つく人間がいない」という前提が間違っているというところからだ。

例えば、あるかわいいかわいい野良猫がいたとしよう。誰にでもなつくし、それでいてかわいいもんだから、近隣の人間はその猫がやってくるとかわいくてすぐに餌をやってしまう。(この場合、条例などによって、野良猫に餌を与える行為が禁止されていない空間を想定してほしい)

なんだ、ごく幸せな日常じゃないか、誰も損害を被っていないじゃないか、と普通は考えたかもしれない。僕も以前まではそう考えていた。

しかし、この空間に、ある猫アレルギーの人間が住んでいたらどうなるだろうか?

周りの住民が餌を与えることによってその野良猫が住み着いてしまい、近所の道にその猫が現れ、その人は自分のアレルギーを発現させてしまう。もちろん、その人を慮って猫に餌を与えないという選択が、社会にとっては重要かもしれない。ただ僕はその直接的な対策の話をしているわけではない。今回の私論にダメージを与えるのはそこではない。

 

この場合、何が問題かというと、「猫がかわいい」ということである。

猫がかわいいというラベル付け、ひいてはそういう感情が、猫を飢えで死なせてはいけないという動機付けになり、餌を与えてしまう。もちろん、彼らは何も被害を受けていないが、それによってある一人の猫アレルギーの人間が被害を受けている。

 

もっとわかりやすい話をしよう。

ある女性は自分の顔をとてもコンプレックスに感じていた。しかし、周りからは「かわいい」と言われ、ある男性からは告白もされた。自分の嫌いな顔を高く評価され、全く自分の気持ちと合わないちぐはぐな評価を下される。もちろん、この女性がもっと自信を持てばいいのかもしれないが、それ以上にこの状況下では、女性はかわいいというラベルに傷ついている。

つまり、かわいいというラベルによって、無意識に誰かを傷つける可能性も往々にしてありうるということだ。

 

加えて、正義という言葉。正義であるということは、人間の行動の評価基準になりうるということだ。つまり何にも脅かされず、堂々としたさまでなければならない。かわいいということはそう考えれば一瞬に脅かされてしまう。かわいいものは我々に害を与えないかもしれないが、かわいいものは我々によって簡単に滅ぼされてしまう。つまり、正義であるためには脅威から身を守るための力も必要になるということだ。

 

これらの点から、かわいいは正義とは言えないことがわかった。きっと考えてみればクソほど当たり前なことを、クソほど真面目に考えてみただけである。

 

ただ、それでも僕はかわいいものが大好きだ。

人間がなぜかわいいものを求めるのかについては、またいつか考えてみたいなと思う。

 

 

しかし、猫を眺めている時に心に流れてくるあの平和な音を聴くたびに、やはりかわいいということは正義なのではないかとも思ったり…笑

いや、猫が正義なのか。笑

 

 

てぃおる

 

 

茅ヶ崎に背を向けて

茅ヶ崎

読める人には読める漢字であり、読めない人にはどうやら難読漢字にも思われるらしい。

 

南湖。

読める人には読める漢字であり、読めない人にはどうやら難読漢字にも思われるらしい。

 

 

ちなみに、茅ヶ崎は「ちがさき」と読み、南湖は「なんご」と読む。

 

どちらも、地名で、茅ヶ崎は神奈川県の市名(横浜市にも町の名前として存在する。その場合は茅ヶ崎ではなく、茅ケ崎だが。)、南湖は茅ヶ崎市の町の名前である。南湖に至っては、変換すら出てこない。(ので、みなみみずうみといつも打っている。)

 

僕はここ、神奈川県茅ヶ崎市という小さな町で生まれ、18年間の人生をこの町とともに過ごしてきた。

 

この町には何もない。あるのは少しばかり淀んだ海と、東京に一本で行くことができるJR東海道線くらい。それ以外は神奈川県とはいえ、本当に何もない町だ。

 

けれど、そんな町が、僕は大好きだ。それらが、たまらなくいとおしい。

今住んでいる京都も、基本的に不便なことはないし、とても好きではある。が、僕が一番愛してやまない町は、インドの町でも京都でもカンボジアでもなく、きっと死ぬまでここ、茅ヶ崎である。(ここと言いながら、僕はこれを京都で書いている。)

 

どうしてこんなに好きなんだろう。

 

考えてみれば当たり前のことであり、きっと誰もが故郷を愛しているのかもしれないが、特に湘南の人間は地元や郷土に対する愛が強いように感じる。

 

 

思うに、僕の中でそれを強くさせているのは、ある男の存在であると思っている。

言うまでもなく、彼とは桑田佳祐である。

 

先ほどまで茅ヶ崎には何もないと言っていたが、サザンオールスターズを生み出した町でもある。 サザンオールスターズというか、桑田佳祐を生み出した町である。

 

 

思い返せば、僕の人生を振り返ったときに、記憶に刻まれている曲はいつも桑田佳祐の歌だった。

僕が物心ついて初めて曲名とメロディが一致して聴いた歌は、おそらく『波乗りジョニー』だった。

あのイントロが流れるたびに、曲の内容とは関係なく、心が踊る。小さな小さな少年の頃の経験が蘇る。夏の心に引き戻される。

 

勝手にシンドバッド』を聴けば、国道134号線の海岸沿いを思い出す。自分が海のある町に生まれたのだと再認識する。

 

TSUNAMI』を聴けば、小学校のころにやった合奏を思い出し、「津波のようなわびしさ」とはなんなのかについて、考えたことを思い出す。今もわかっていない。相変わらず意味不明な歌詞を書くものだ。

 

 『チャコの海岸物語』を聴けば、海に反射する光のゆらめきと、太陽に照らされる汚い砂浜を思い出す。漂着物やらポイ捨てしたゴミやらで、砂浜はいつも汚いのだ。変なクラゲも落ちている。

 

そんな中で、僕が心の底から好きな歌がある。

希望の轍』である。本当に好きというか、どれもこれも名曲ばかりなのだが、僕にとっては中でも象徴的な曲なのである。

 

というのも、『希望の轍』は2014年10月より茅ヶ崎駅JR東海道線の発着メロディーとして使用され、上り方面ではイントロ、下り方面ではサビが流れる。

僕は高校時代、電車で通学していたので、無意識にこれを毎日聴いていた。

それまでは別に毎日聴いていたわけではなかったが、思い返せば僕の高校時代はこの曲が象徴していたと思う。

 

もちろん、高校生だったころは、毎日ががむしゃらで、必死に生きてきた。毎日何かに悩み、何かに怯え、そして何かに希望を抱いていた。そんなことに余念を巡らすほど、暇ではなかった。

けれど慣れ親しんだこの町を離れ、遠く離れた町でこの曲を聴くと、涙が溢れて止まらないのだ。

何を隠そうこの歌には、茅ヶ崎を思わせるフレーズがいくつも出てくる。

「遠く遠く離れゆくエボシライン」。エボシとは、茅ヶ崎のトレードマークとも言える烏帽子岩のことを指す。(かたちが烏帽子に似ているからという、なんともお粗末なネーミング。戦後、米軍による砲撃演習の的として使用され、現在のかたちになったと言われている。)

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そしてエボシラインとは、この烏帽子岩を望む海岸線沿いの国道134号線の事であると思われる。(実際のところは砂防林が生い茂り、現在は海岸を望むことは難しくなってはいるが、桑田さんがこの詞を書いていたころは、もしかしたら本当に見えていたのかもしれない。)

 

そしてまた、僕にとってはこの離れゆくエボシラインは茅ヶ崎に背を向け、京都へと足を走らせる東海道線でもあるのだ。このエボシラインは、僕の青春時代を走り抜けた軌跡でもあり、"轍"なのだ。

僕の町は愛に溢れ、希望に溢れ、涙に溢れ、僕を優しく包み込む。僕の背中を茅ヶ崎は押してくれる。この歌を聴くたびに、生まれてよかった、この町でよかったと心から思せてくれる。

 

遠く遠く離れたこの町でも、僕は力強く生きている。波の音に支えられ、桑田佳祐の歌声に支えられ、希望の轍に支えられ、そして愛する仲間や家族に支えられ、僕は力強く生きている。

 

綺麗な海でも、魅力的な街並みでも、なんでもない。サーフィンをするわけでもない。けれど僕はこの町を一生愛するだろう。

 

だってこの町は、僕を温かく見守り、僕を育ててくれたから。

 

Let me run for today!

 

 

てぃおる

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優しいってなんだろう卍

つい先日、友人に「優しくなったよね」と言われたことがある。自分でも気づいていなかったが、言われてから「たしかに」という実感が沸いてきている。

ただ、その実感が果たしてどこからきたものなのかについて考えるうちに、「あれ、優しいってなんだ?笑」という謎にハマってしまったので、ここでゆっくり考えてみようと思う。

 

優しい=甘い?

 

こんな世に当たり前に出回っている言葉だから、「優しい」という言葉の意味についてまさか辞書を引くとは思わなかったが、引いてみると案外面白いことがわかったりする。

 

デジタル大辞泉』によれば、「優しい」には以下のような意味を持つという。

  1. 姿・ようすが優美である。上品で美しい。
  2. 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。
  3. 性質がすなおでしとやかである。穏和で好ましい感じである。
  4. 悪い影響を与えない。刺激が少ない。
  5. 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。
  6. 控えめに振る舞い、つつましやかである。
  7. 殊勝である。けなげである。りっぱである。 

 調べてみるとこんなにたくさんの意味が存在したのかとぎょっとする。そして、僕が思っていた意味としてもっとも近いのは2番の意味だけで、それ以外の意味は思いもしなかったものである。

そしてさらに驚きだったのは、「甘い」という意味がどこにもなかったことである。総じて「控えめである」というニュアンスを含んでいるので、そこに甘さを汲み取れなくもないが、世に言う「優しい=甘やかしている」という意味は言語としてそもそもどこにもなかったのである。

 

これは、何も「優しいということはただ甘やかすことではない。時には心を鬼にして厳しく、本当にその人のためになる行動を取れることだ。」というありきたりな結論に着地したいからではない。というのも、僕は優しさの本質はそこにはないのではないかと考えているからである。そもそも本当にその人のための行動を取れるという意味はおそらく辞書中の2番に包含されている。

 

むしろ僕は優しさとは甘さにやはり近いものであると考えているが、実際のところ、辞書が甘いという言葉を使ってこなかったということは、日本語は甘いを受け入れなかったということである。辞書を信じるだけの勉強法は浅はかだという論者に怒られそうだが、ここは僕の論を進めやすいので便宜的に辞書を用いているだけである。

(なぜ本を信じるべきかについては下の記事でふれている。)

 

thiothiosaurus.hatenablog.jp

 

優しくない人って逆に何?

では、今度は優しくない人について考えてみる。おそらく僕の見立てでは、上にあげた7つの意味のうち、「少なくとも一つを満たすものは優しい」なのだが、そうなると、「全ての条件を満たさないものは優しくない」になってしまう。

たしかに、優美でなくてひねくれていて思いやりがなくて悪い影響を与えて傲慢で恥ずかしげもなくて鼻持ちならない人間は、優しくなさそうだ。

しかし、だからと言ってそんな人間でも誰かにとっては優しさをもたらす人間ともなりうるかもしれないし、逆にただひけめを感じているだけの人間も、優しいとはいえない(そもそも5〜7番は、古語の意味として使われているものなので、現代にあてはめた優しいという実感とは、幾分か離れているかもしれない)。

つまり、上記の7つの条件はあくまで必要条件にすぎず、十分条件ではないのだ。いや、もしかしたら必要条件ですらないのかもしれない。そう考えるとさらに泥沼だが。

 

これ以上文字自体、つまり字面ばかりについて思考を巡らすのは難しいので、ここでなぜ僕が優しくなったと言われ、そしてそれに対して実感を得られたのかについてもう少し考えたい。

 

その中で同時に彼は「余裕がある」という内容にも言及している。彼の中では優しさとは余裕なのか? 僕はここに実感を獲得したのだろうか。いや、そういうわけでもない。余裕と言われれば余裕なのかもしれないが、僕の中ではちょっとだけ違う。

 

では、何が今までの僕を優しくしていなかったのか、逆に今の僕を優しくたらしめているものはなんなのか。

たしかに、今までの自分は物腰が穏やかではなかった。汚い言葉を吐いていたし(今もか)、すぐイライラしていたかもしれない。

たしかに、今までの自分は健気でも謙虚でもなかった。僕の場合、それは「臆病」だった。卑屈とも呼べるかもしれない。

今の自分を客観的に評価するのは少し難しいので、裏を返せば今の自分は上記の条件にあてはまらないということだろう。

 

勇敢な志

そう考えると、やはり優しさとは「強さ」のことなのかもしれない。

 

 

いや、突然強さだと言われても意味がわからないかもしれない。それもそのはずであるし、もしそうであるなら、「僕は強い」ということになってしまう。

しかし、僕が見てきた中で優しいという要素を持っている人間は総じて「強い」のだ。素敵なのだ。その笑顔、その振る舞いに魅了されるのだ。

彼らは彼らなりに欠陥を持ちながらも、その存在を認め、そしてそれらをも愛してしまう愛にあふれた人間なのだ。そして欠陥を認めたその笑顔には、やはり強さがあり、やはり優しさがある。

 

 

なるほど、そう考えると好きな男性のタイプに「優しい人」とあげる女性は、本能的にその優しさの奥底にある強さ、勇ましさに魅力を感じているのかもしれない。

 

強さとは僕の中で勇敢であることであり、志を持っているといったところだろうか。勇敢とは無謀という意味では決してない。志に支えられているから、勇敢なのである

 

そしてその勇ましさに支えられた人間味からは、優しさがあふれる。人に悪い影響を与えない。周りの人間に対して思いやりが持てる。

 

 

そしてその振る舞いは優美であり、どこか恥ずかしげでもある。

 

 

てぃおる

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