てぃおるの妄想録。

妄想・思考のはけ口。書きたいことをうんざりするほど書きたい。

洋服に感情を。彼に光を。(後半)

 

僕が今実感している奇妙な感情は一体なんなのかは、おそらくすぐには明らかにならないだろう。というより、その感情そのものよりも、それが僕に対して何をもたらしているのかについて考える、もしくは僕自身がその感情をどうして生み出しているのかについて考えることの方が先決である。

 

これについて考える前に、まずはある友人のある話について一応の結末をつけなければなるまい。

 ↓前半の彼の身に起こった出来事についてはコチラ↓

thiothiosaurus.hatenablog.jp

 

果たして、彼は救われたのだろうか。

                                                    

 

 結論から述べると、おそらく彼は救われた。他でもない、まさか自分が悩ませられたあの洋服たちに。

 

 忌々しい。

 価値観の津波に飲まれていた彼だが、ある時彼に転機が訪れる。それは彼が19歳になったころ、突如として彼の目の前に現れる。彼は洋服の事が嫌いになりかけていた。モテるため、コンプレックスを隠すため、かっこよくなるため、男らしくなるために身につけていた洋服は、かえって彼のアイデンティティの根幹を揺るがし、正常な自己表現としてのあり方を破壊してしまったからだ。「なりたい自分」になるための洋服だったのに、なりたい自分と現実とのギャップ、そしてまた、本当の自分とは果たしてなんだったのかという疑問が彼をぶん殴り、加えてそれとは関係のない文脈での経験や周りの姿を勝手に結びつけ、更に劣等感を増幅させていた。

 

 

「これがモテる」

「このアイテムが流行っている」

「この服はダサい」

 それが正しいと思っていた。それにすがれば俺はかっこよくなれると思っていた。なのに誰もわかってくれなかった。誰もそんなことを気にしなかった。俺のことを見てくれる人は洋服では生まれなかった。それもそのはずなんだ。本当にモテる人、本当にイケてる人はそんな不特定多数の愛情や羨望の眼差しにはそもそも興味なんかない。あいつらはだからかっこいいんだ、それでいて特定のなにかに対してヘイトをするわけでもないし、他人は他人、自分は自分ということを本当に理解している、だからかっこいいんだ。

 でも俺は、あいつらなんかにはなれない。本質はもっと複雑なんだきっと。

 

 彼はそうして洋服を憎むようになった。勝手に自分の中で作り出した体系により、洋服によって理想の自分になり、コンプレックスを克服することなんて妄想なんだ、あれは生存者バイアスにすぎず、ほとんどの人間はそこで理想を求めるのを諦め、心の中に理想を揉み消して過ごしているだけなんだ、と。

 

 そんな彼の、ある19歳の時の出来事である。彼はいつものように街へ繰り出した。相変わらず街中は活気づき、自らの内面とは対照的に、光り輝く。彼にとって洋服はもはや嫌いだったが、関心がないというわけではないし、大学生にとって私服がないということは死活問題だ。必要とあらば買わなければならない。それ以上に今まで必死になって集めてきた洋服に関する知識や経験を無駄にしたくないという、謎のケチ意識が頭の片隅にあったことも否めない。なのでいつものように、無難で低身長にも似合うような、これまでの価値観と変わらない洋服を探していた。

 

 そうして突然、「ヤツ」が彼の目の前に現れた。品がなさすぎるほど青くて、薄汚れていて、重たくて、到底今の価値観では考えられないような、かっこ悪くて、ダサい洋服。男であったら幼少期に着たかどうかくらいの、ダサい代物。俗に言う、「オーバーオール」である。おそらく普通の人はスーパーマリオが着ているくらいしか印象がないだろう。彼はそれを一瞥し、「なんてダサい洋服だ、こんなもの着れる人なんて相当おしゃれか変態くらいだろう」と心の中で蹴散らした。店をあとにし、また普段通り洋服を探す。しかし、どこかにひっかかりがある。なんだこの気持ち悪さは。今まで選んでいた好みの洋服が、まるでくだらないものかのように見えてくる。それどころか、今度は頭の中をあの薄汚いオーバーオールが埋め尽くす。

 なんなんだあれは、イラつくな、俺があんな個性的な洋服着たらダメに決まってるだろう、低身長なのが余計に露呈して余計子供っぽくなってしまう、俺はそんなコンプレックスをさらけ出す人間にはなりたくない。そもそも誰も俺のことなんて気にならないんだから、個性的な洋服なんて着たところで時間と金の無駄だろ!

 

……

……

 

……いや、待てよ。誰も俺のことなんて気にならない?

 

 

 彼は足早に先ほどの店へ戻った。そして他の今までの商品には目もくれず、一気にあの薄汚い青臭い作業着を手に取り、試着室のカーテンを閉めた。もはや着方すらわからないようなそのゴミ同然の洋服(その店は古着屋だったらしく、後で彼から話を聞くに、古着というのは高級ブランドやヴィンテージのつく商品でない限り買い付けの値段がかなり低いのがほとんどだそうだ)を無理くり着てみた。

 意外なことに、彼の心に沸き起こってきたのは、恐ろしいまでの安心感だったのだ。彼は半ば投げやりにそのオーバーオールを着た。どうにでもなれという気持ちで。それがかえって、彼に安堵をもたらした。

 

 実際、オーバーオールは子供らしい印象を与えてしまうし、カジュアルすぎるがゆえに落ち着きやシャープさは失われる。 しかし、彼は元来低身長だった。彼は元々、子供っぽかった。周りからはガキだと揶揄されながらも、そんな素直でまっすぐな感情を嫌いになれない友人がいたことも否めない。元から彼は、落ち着きなんてものはなかったのだ。その時の感情を今思い出そうとしても難しいが、言葉に思い起こすと「あぁ、俺が求めていたものはこういうことだったのか」ということだと彼は語る。

 つまり、似合う似合わない、ダサいダサくないという観点ではなく、内面から見て「自分らしいからしくないか」ということであったらしい。それからというもの、彼はその感覚を頼りに今まで持っていた服をほとんど捨ててしまったそうだ。自分の感情が洋服に灯っていたかどうか、その洋服は自分たりうるかという観点に沿って、ほぼ衝動的に捨ててしまったらしい。もったいないと思うかもしれない。確かにそうだ。

 しかし、彼はそれによって呪縛から解放された。周囲の価値観のがんじがらめで勝手に生み出していた鎖を断ち切り、彼自身のアイデンティティに気づくことができた。自身を承認することができた、許すことができた。自分に自信が ”モテる”ようになったのだ。

 

 それから彼がかっこよくなったとかおしゃれになったとか、モテるようになったとかそんなことは正直確かめようがないし、これから先もきっと彼の周りは彼のことなどどうでもいいのだ。ただ彼はそのどうでもいいに対してさえどうでもいいと思えるようになった。自分が本当に大切にすべき価値観と、その差異に気づくことができた。

 そう、彼は救われたのだ。あの忌々しい洋服に。かっこいい自分から、「ただの自分」へ。

                                                    

 

結局この話を通して、僕が何を伝えたかったのかというとあまりわからない。しかし僕個人としては、この価値観の鎖から解放させてあげられる人がいれば解放させてあげたい、助けてあげたいという気持ちである。ただ現実はそううまくいかない。(と、彼も散々わめいていたが。笑)そんな洋服という「道具」に対するある思考の中で生まれた奇妙な感情である。僕は洋服は道具ではないと断固して主張したいが、道具的な機能もゼロではない。ただ、洋服は情緒の発露であり、あなた自身であるということは間違いない。感情を失った洋服には、彼のように自らの劣等感を増幅させかねない危険性がある。

 

コンプレックスなんて隠さなくていい、どうせ誰も見てないんだ、たまに自分を気にかけてくれる人が、自分の感情に、情緒に気づいてくれれば、それでいいじゃないか。

「それでいいよ」、そう言える人間に僕はなりたい。

 

 

そんな、あるオーバーオールという薄汚い古着をめぐる、ある原田透(はらだとおる)という低身長の男の、ある19歳のころのお話である。

 

てぃおる

 

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(この写真あげるの相当恥ずかしかった笑 もっとまともな写真にすればよかった、、)