てぃおるの妄想録。

妄想・思考のはけ口。書きたいことをうんざりするほど書きたい。

2018年は?

年始になると、「今年の抱負」たるものがちらほら出てくる。

 

自分も振り返るし、抱負もきっと考えようとは思う。

 

ただそのたびに、僕はことごとく未来志向でないんだなぁということを強く感じてしまう。

 

例えば、「今年は〜〜な一年にしたい」という目標や願望を設定したとする。もちろん、その意思が固いことはとても良いことだと思うし、それを忘れたところでそういうものをきちんと考えることそのものはすごいなと思う。

けれど、「新年ってなんだ?」という疑問が僕に突き刺さる。

 

僕の場合、今年一年をどうしたいか、どんなことを成し遂げたいかという風に提起したとき、大抵回答はおろか、考えることすらもしんどくなってしまう。

 

原因ははっきりとわかる。自分が死ぬと思っていないからだ。

 

「今年一年どうしたいかなんて言われても、、、ねぇ?笑」

 

僕は言葉に詰まってしまう。それが良いことだとは思っていない。

おそらく僕は今、途方もない闇にいる感じだ。

というか、このまま生き続けてどこかで意識というものがピタと途絶え、どこかへ消えていく、自分の中で死ぬことは信じられないけれど、そんな感覚。でも、今はきっと死なないと確信しているからこそ、こんな風に新年を、当たり前のものとして捉えてしまっているんだ。

 

循環する時間。

2017年から2018年へ、ではなく、ある僕の人生においての時計が一周して、また時計が1時へ動いていく。12月が終わったら、1月だ。アメリカだって、DecemberからJanuaryへと時計が戻る。

冬が終わったら春になる。誰かが決めたことではないし、絶対なんてものはない。けれど、毎年なぜかそうなっているからそうなのだ。毎年なんてものは本来なかったが、そうすると便利だからそうなのだ。先人たちはとても賢かったのだ。

 

僕は循環していたい。円周上を永遠に回っていたい。半直線を進むのは、どうにも疲れる。表面的には、そう思っていた。

けれど進まなければ、僕は何にもなれないし、何であろうとすることもできないのかもしれない。

 

こんなことにいちいち思考を巡らすのはきっと、僕自身が心のどこかで半直線の道を進みたいからだ。

恐れていながら、実は未来志向になりたいからだ。

不安定な道の中に、「あ、ここは走りやすいな」という、確かな地面の感覚を確かめたいからだ。

自分はきっと死ぬが、どこかに自分が生きたという轍を残したいからだ。

 

円周はきっと、踏みならされて固まり、僕の足跡はいよいよその原型を失い、そしてまた確かな円になる。

けれど僕は全くそんなことには気がつかない。自分が歩いた道は、しょせん円周上のどこかの点にすぎず、一体どこがそれにあたるのか、誰も確認のしようがない。

 

それに孤独を覚えている、そんな新年。

 

命を大切にしなければいけない。そこから未来の存在は認識されていくのであるし、僕はそうありたい。そうあらなければ、僕は虚無だ。

 

 

あ、今年の抱負できた。

 

 

てぃおる

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