人を動かすのは:
人を動かす。別に、止まっている人間という物質を、エネルギーによって物理的に移動させるということではないですよ笑
人を動かすという言い方がそもそも僕は嫌いなのですが、それは省くとして、
今回では組織や社会、共同体の中で互いに影響を与え合う個人として、「誰かに何かをしてほしい」「組織をこうしていきたい」という問題意識にフォーカスして妄想していきたいと思っています。
*「ちょっと〜!男子!ちゃんと歌ってよ〜!」
みなさん、たぶん絶対こういう経験あると思うんですけど、
「誰々が仕事してくれない」
「誰々と馬が合わない」
「組織の中で働いている人間に偏りがある」
みたいなやつ、今まで死ぬほど感じてきたと思うんです。
「ちょっと〜!男子!ちゃんと歌ってよ〜!」
ってやつがその最たる例ですかね。笑
ただ、その注意に対して「は、女子がちゃんと歌ってって言ってる!ちゃんと歌わなくては!」って思ってそれから意識を変え、行動を変えた人間(つまり、動かされた人間)は果たしてどれくらいいるのでしょうか。
僕のノリだと日本には6人くらいしかいないと思っています。(シビア)
どういうことかというと、これ、女子は本当に男子にちゃんと歌ってほしいと思っているのですが、この方法だと男子はまあ動かないっていうメカニズムなんですよね。
もちろん、動く人は動きます。でも日本にそれで動く年頃の中学生男子は6人しかいないので(嘘)、明らかに効率が悪いということです。
上にも書いたように、社会に所属する人間にとって、自分の思いを共有し、その上でその思い通りに(言い方は悪いですが)人に動いてもらうということについては、避けられない問題であると思います。
* 「外発的」か「内発的か」
とはいえ、今までこんなことに問題意識を持つ人は腐るほどいらっしゃったので、便利な時代になったものです、これについて論じてくれているリーダーシップ論やビジネス書、自己啓発書も腐るほど存在しています。
例えば、このような動機付けの著作で一番有名なのは、D.カーネギー氏著『人を動かす』だと思われます。というか、なんなら世界でもっとも読まれている自己啓発本のうちの一つだと思います。
かくいう僕もこの本を読んで色々考えました。詳しい内容については触れないでおきますが、人を動かすことについての様々なアプローチが書かれていて、単純に明日からこれ試せるな、みたいな内容もあったりします。
僕自身、これ以外にも自己啓発本をよく読む意識高い系なので(大学の勉強しろ)、似たような内容、これは的外れだなみたいな内容、様々なものを見てきました。
また、学生団体でも図々しく活動していたので、そういった、「人を動かす」ことについては、自分なりに色んな経験・学びを得てきたつもりではあります。
例えば、、
- 「君が必要である」という適切で、論理的な説明
- 「君が仕事をやれ」という、強制力
- 「君にはこんな仕事が向いているんだ」という、役割分担
- 「君が仕事をしないとこんな損失がある」という、恐喝
- 「君が仕事をすればこんな良いことがある」という、インセンティブ
- 「君は僕にこんな借りがあるよね」という、貸し借りの関係
これ以外にもたくさんありますが、どれもおそらく有効です。
先ほどの「男子合唱コンの練習で絶対ちゃんとやらない説」(の割に本番でエモくなる七不思議)に関しても、上の項目に当てはめると恐喝もしくは強制力にあたりますね。
でもなぜこの場合動かないかと言われれば、それは「損失・強制の規模が小さいから」です。
逆にこの場合、歌わなかったら死ぬ、または歌わないことが犯罪であり、それで罰が課される、といったような歌う以外に自分の文化的生活、生命活動を維持することができないときに、この方法は非常に有効です。
ただ、上に書いたような方法は僕にとっては最適解ではないという結論に至りました。(『人を動かす』においても、これらより重要なことを説いています。)
心理学の専門用語でいうなら、これらは全て「外発的動機付け」であるということ。
(恥ずかしながら、僕は教育学部に所属していて、心理学についてもなんとなく触れる機会があるのですが、それらの知識はほぼ皆無なので笑、ここではこの単語だけを抽出しています。)
これらは全て、行動の動機が外的なものに起因しているということ。「誰々に怒られるから」「誰々がほめてくれるから」「誰々に借りがあるから」という、外部の事象があってはじめて当人がその行動を起こすということ。
「いやいや、そんなん言い出したら全部そうやん!」
と思うかもしれませんが、例えば趣味。これは普通「好き」だから続けていますよね。誰かに言われてやることではなく、自分の内側から湧き出るパッションによって行動しています。
それでいて、好きでやっていることは楽しいし、それで何かの価値が外部に発生しなくとも、それらを続けていますよね。(逆にこのようなものは「内発的動機付け」に含まれます。)そこに重要なポイントがあるんです。
*こんなあなたが、「いる」ということ
ではいったい、人を動かすのはなんなのか。
それは、「認めること」です。
何を認めるか。おそらく全てです。相手の存在を認めること、相手の思いを認めること、自分の立場を認めること、自分の間違いを認めること。お互いの立場の違い、状況を認めること。
少し難しいように思えます。ですが、とってもとっても簡単で、本当に大切なことなんです。
もっと具体的な話。
相手の、彼らの存在をより具体的に観察してあげること。そしてそれについて、「良い悪い」という判断をしないこと。もちろんほめたり、叱ったりすることは大切でしょう。「私は◯◯のことを思って言っているんだ」と。
でも、それって本当に相手のことを考えているのでしょうか。
きっと考えているはずよね。けれど、そこにあるのは人間関係における大事な大事なステップを省いた、一種の自己欺瞞なんです。
「あなたのことを思って言っている」とは、最終的に「私の思うようなあなた」になっているということ。それを相手は絶対に感じ取ります。
そこには、本当の自分を見てくれて、尊重をしてくれている相手は存在しない。自分を対等な、一人の人間として見れていない相手(つまり、自分のことを思っているはずの私)が映っているのです。
こうなると、相手も「この人は私に思い通りに動いてもらいたいだけであって、私自身のことはどうでもいいんだ」と思うようになり、相手も自己欺瞞に陥ります。
僕は、仕事や活動に関わらず、人間関係のあらゆる問題はこのようなところから発生すると考えています。
*リスペクトと愛
話を戻すと、この「認める」という行為のプロセスのどこに人を動かすメカニズムが生まれてくるのかということについてです。
この流れを見てみるとわかるように、「んで、結局人はどう動くの?」という疑問が生じると思います。
実のところ、この行為はそもそも「人を動かす」ことは目的にしていません。
というか、人を動かすことは目的になりえないのです。
目的は、「あなたが相手をリスペクトし、心から愛すること」です。
なんかスピリチュアルな感じになってしまいましたが笑、僕はこれこそが人を動かす、もっと大きくいえば、人間同士が互いにポジティブな影響を与え合うために最も必要な要素だと思っています。
あなたがいるということ。
あなたが今、笑っているということ。
あなたが今、つらくて苦しいということ。
あなたが、こんなことをしてこんなことができるということ。
それに対して、良いも悪いもないんです。それを尊重して、そんなあなた(自分も、相手も)を愛してください。
そうすれば、きっと僕たちは「そんなあなた」という存在に対して、素敵な言葉や、素敵な行動を自ら与えられるようになる。
、、、と、妄想しております。
世界平和になんねぇかなぁ。
てぃおる