思わなければ、未来はない。
最近、よく本を読む。 自己啓発系・エッセイ・小説、なんでも読む。
毎回のようにそれらを読んでは、感想を書いてはいるのだが、どうにも僕は根っからのひねくれ者で、それらの「穴」を探してしまう。
これはとにもかくにも僕を困らせてしまう。いいな、ステキだなと思う一方で、でもこれって因果関係ないよね、これって局部的なものだよね、といった具合に。
批判的思考はもちろん良いと思う。(すぐに何かを鵜呑みにしない一歩引いた見方はある種自分の強みだとも思っている。)
しかし、それは、何かに対してただ否定的に思考することではなく、それらの論理や因果関係などを適切に分析し、本質や最適解にたどり着くためのツールとして活用され初めて意味をなすのであって、僕の場合、ただケチを付けるだけで終わりだ。一番厄介な人間だ。(そこに未来性がないことは、一転して自分の弱みである。)
この本を読み、そしてあの本を読み、そしてその本を読む。そして僕は今日も生きていく。
…………ところで、僕はどんな影響を受けただろうか?
この本がよかった、ためになった、そう口では言ってみても、僕の中にはその思考も行動指針もいつの間にかなかったことになっている。
なぜだ。僕にとって、読書はなんなんだ。
……いや、読書に限った話ではない。映画にしろ、誰かのセミナーにしろ、誰かと飲んで話したことでさえも、いつの間にかなかったことになっている。確かにそこにその存在はある、そしてそれと僕とがふれあった経験という事実も間違いなく存在している。
なのに、どうして僕はそれを信じることができないのか。
考えてみると、どうやら僕は過去の自身の経験に基づいて未来を規定する人間であり、まったく知りもしない人間の人生観から未来を規定することを、生理的に受け付けたくないようだ。生理的というか、自分のことは自分が一番わかっているし、他人、ましてそんな知らない人間の言うことは、僕の生き方には合わないと勝手に決めてしまっていることが多い。
それもまたある種強みではあるが、一度この沼にはまると、これがなかなか抜け出せない。
僕の未来は僕の経験が決める。言葉だけみればかっこいい。でも僕の未来は、今間違いなく滞っている。その本を読んで、ちょっとほめて、ちょっとけなして。それから僕の行動は、何一つ変わっていない。そして何も生み出していないことに気がついた。
だとしたら、僕は一体何を信じればいいのか。
おそらく僕が信じるべきは、自分ではなく他者にあり、他者の非他者性であると思っている。
「わたしとあなたは違う」
確かにそうかもしれない。僕はこれまでそうやって人生を歩んできた。だれも僕のことなんかわからない、だからお前の言ってることは僕にはあてはまらない、というふうに。
ただ僕が思っている以上に、僕はあなたや彼らと実は同じであり、決して他者なんかではないということだ。人と違うことについていちいち思考をめぐらすのは疲れるし、僕はいつまでたってもただの僕だ。昨日の僕は今日になっても明日になっても変わらない。
だから僕はこれから、本に限らずもっとそれらを信じて、そして自分も同化しようと思う。自分でも何を書いているのかわからないが、実は僕はこのブログを書く前にすでにある本に影響されている。それに気がついた途端、たちまち気持ちが良くなったのだ。
山崎拓巳さんという方の『やる気のスイッチ!』に書いてあったことである。
思ったことは叶う。現実は自分が作り出している。
そんなバカな。彼も著書の中でそう語っている。逆に、何をそんな当たり前のことをという人もいるかもしれない。だが僕にとっては、これはとんでもない価値観の破壊だった。
僕が決めることは今まで僕の経験からはじき出した計算結果だけだった。それが、「君の現状とも過去ともまったく程遠い世界をまず設定するんだ」というもんだから、これは到底信じられない。しかし、これを信じることこそが、未来を明確に思うことこそが、今の自分には必要だということに気がついた。
本で読んだこと、映画で学んだこと、全て僕の経験にはないものだ。ないものだからないのだ。だが、それがあるであろう、それを生かしているであろう未来の自分を信じた上で、今を生きるべきなのかもしれない。僕の今は、過去に依存しすぎていたのかもしれない。今の自分には、「思う」ことが徹底的に欠けていた。本もセミナーも他者も、僕ではないとして、「思う」ことを否定していたのだ。それがひいては僕の未来さえも否定してしまっていた。
「思ったことは叶う」らしい。上等じゃないか、信じてみようじゃないか。突拍子もなく僕の経験にもない、まるで不思議な未来。
ワクワクしてきた。
てぃおる
2018年は?
年始になると、「今年の抱負」たるものがちらほら出てくる。
自分も振り返るし、抱負もきっと考えようとは思う。
ただそのたびに、僕はことごとく未来志向でないんだなぁということを強く感じてしまう。
例えば、「今年は〜〜な一年にしたい」という目標や願望を設定したとする。もちろん、その意思が固いことはとても良いことだと思うし、それを忘れたところでそういうものをきちんと考えることそのものはすごいなと思う。
けれど、「新年ってなんだ?」という疑問が僕に突き刺さる。
僕の場合、今年一年をどうしたいか、どんなことを成し遂げたいかという風に提起したとき、大抵回答はおろか、考えることすらもしんどくなってしまう。
原因ははっきりとわかる。自分が死ぬと思っていないからだ。
「今年一年どうしたいかなんて言われても、、、ねぇ?笑」
僕は言葉に詰まってしまう。それが良いことだとは思っていない。
おそらく僕は今、途方もない闇にいる感じだ。
というか、このまま生き続けてどこかで意識というものがピタと途絶え、どこかへ消えていく、自分の中で死ぬことは信じられないけれど、そんな感覚。でも、今はきっと死なないと確信しているからこそ、こんな風に新年を、当たり前のものとして捉えてしまっているんだ。
循環する時間。
2017年から2018年へ、ではなく、ある僕の人生においての時計が一周して、また時計が1時へ動いていく。12月が終わったら、1月だ。アメリカだって、DecemberからJanuaryへと時計が戻る。
冬が終わったら春になる。誰かが決めたことではないし、絶対なんてものはない。けれど、毎年なぜかそうなっているからそうなのだ。毎年なんてものは本来なかったが、そうすると便利だからそうなのだ。先人たちはとても賢かったのだ。
僕は循環していたい。円周上を永遠に回っていたい。半直線を進むのは、どうにも疲れる。表面的には、そう思っていた。
けれど進まなければ、僕は何にもなれないし、何であろうとすることもできないのかもしれない。
こんなことにいちいち思考を巡らすのはきっと、僕自身が心のどこかで半直線の道を進みたいからだ。
恐れていながら、実は未来志向になりたいからだ。
不安定な道の中に、「あ、ここは走りやすいな」という、確かな地面の感覚を確かめたいからだ。
自分はきっと死ぬが、どこかに自分が生きたという轍を残したいからだ。
円周はきっと、踏みならされて固まり、僕の足跡はいよいよその原型を失い、そしてまた確かな円になる。
けれど僕は全くそんなことには気がつかない。自分が歩いた道は、しょせん円周上のどこかの点にすぎず、一体どこがそれにあたるのか、誰も確認のしようがない。
それに孤独を覚えている、そんな新年。
命を大切にしなければいけない。そこから未来の存在は認識されていくのであるし、僕はそうありたい。そうあらなければ、僕は虚無だ。
あ、今年の抱負できた。
てぃおる
人を動かすのは:
人を動かす。別に、止まっている人間という物質を、エネルギーによって物理的に移動させるということではないですよ笑
人を動かすという言い方がそもそも僕は嫌いなのですが、それは省くとして、
今回では組織や社会、共同体の中で互いに影響を与え合う個人として、「誰かに何かをしてほしい」「組織をこうしていきたい」という問題意識にフォーカスして妄想していきたいと思っています。
*「ちょっと〜!男子!ちゃんと歌ってよ〜!」
みなさん、たぶん絶対こういう経験あると思うんですけど、
「誰々が仕事してくれない」
「誰々と馬が合わない」
「組織の中で働いている人間に偏りがある」
みたいなやつ、今まで死ぬほど感じてきたと思うんです。
「ちょっと〜!男子!ちゃんと歌ってよ〜!」
ってやつがその最たる例ですかね。笑
ただ、その注意に対して「は、女子がちゃんと歌ってって言ってる!ちゃんと歌わなくては!」って思ってそれから意識を変え、行動を変えた人間(つまり、動かされた人間)は果たしてどれくらいいるのでしょうか。
僕のノリだと日本には6人くらいしかいないと思っています。(シビア)
どういうことかというと、これ、女子は本当に男子にちゃんと歌ってほしいと思っているのですが、この方法だと男子はまあ動かないっていうメカニズムなんですよね。
もちろん、動く人は動きます。でも日本にそれで動く年頃の中学生男子は6人しかいないので(嘘)、明らかに効率が悪いということです。
上にも書いたように、社会に所属する人間にとって、自分の思いを共有し、その上でその思い通りに(言い方は悪いですが)人に動いてもらうということについては、避けられない問題であると思います。
* 「外発的」か「内発的か」
とはいえ、今までこんなことに問題意識を持つ人は腐るほどいらっしゃったので、便利な時代になったものです、これについて論じてくれているリーダーシップ論やビジネス書、自己啓発書も腐るほど存在しています。
例えば、このような動機付けの著作で一番有名なのは、D.カーネギー氏著『人を動かす』だと思われます。というか、なんなら世界でもっとも読まれている自己啓発本のうちの一つだと思います。
かくいう僕もこの本を読んで色々考えました。詳しい内容については触れないでおきますが、人を動かすことについての様々なアプローチが書かれていて、単純に明日からこれ試せるな、みたいな内容もあったりします。
僕自身、これ以外にも自己啓発本をよく読む意識高い系なので(大学の勉強しろ)、似たような内容、これは的外れだなみたいな内容、様々なものを見てきました。
また、学生団体でも図々しく活動していたので、そういった、「人を動かす」ことについては、自分なりに色んな経験・学びを得てきたつもりではあります。
例えば、、
- 「君が必要である」という適切で、論理的な説明
- 「君が仕事をやれ」という、強制力
- 「君にはこんな仕事が向いているんだ」という、役割分担
- 「君が仕事をしないとこんな損失がある」という、恐喝
- 「君が仕事をすればこんな良いことがある」という、インセンティブ
- 「君は僕にこんな借りがあるよね」という、貸し借りの関係
これ以外にもたくさんありますが、どれもおそらく有効です。
先ほどの「男子合唱コンの練習で絶対ちゃんとやらない説」(の割に本番でエモくなる七不思議)に関しても、上の項目に当てはめると恐喝もしくは強制力にあたりますね。
でもなぜこの場合動かないかと言われれば、それは「損失・強制の規模が小さいから」です。
逆にこの場合、歌わなかったら死ぬ、または歌わないことが犯罪であり、それで罰が課される、といったような歌う以外に自分の文化的生活、生命活動を維持することができないときに、この方法は非常に有効です。
ただ、上に書いたような方法は僕にとっては最適解ではないという結論に至りました。(『人を動かす』においても、これらより重要なことを説いています。)
心理学の専門用語でいうなら、これらは全て「外発的動機付け」であるということ。
(恥ずかしながら、僕は教育学部に所属していて、心理学についてもなんとなく触れる機会があるのですが、それらの知識はほぼ皆無なので笑、ここではこの単語だけを抽出しています。)
これらは全て、行動の動機が外的なものに起因しているということ。「誰々に怒られるから」「誰々がほめてくれるから」「誰々に借りがあるから」という、外部の事象があってはじめて当人がその行動を起こすということ。
「いやいや、そんなん言い出したら全部そうやん!」
と思うかもしれませんが、例えば趣味。これは普通「好き」だから続けていますよね。誰かに言われてやることではなく、自分の内側から湧き出るパッションによって行動しています。
それでいて、好きでやっていることは楽しいし、それで何かの価値が外部に発生しなくとも、それらを続けていますよね。(逆にこのようなものは「内発的動機付け」に含まれます。)そこに重要なポイントがあるんです。
*こんなあなたが、「いる」ということ
ではいったい、人を動かすのはなんなのか。
それは、「認めること」です。
何を認めるか。おそらく全てです。相手の存在を認めること、相手の思いを認めること、自分の立場を認めること、自分の間違いを認めること。お互いの立場の違い、状況を認めること。
少し難しいように思えます。ですが、とってもとっても簡単で、本当に大切なことなんです。
もっと具体的な話。
相手の、彼らの存在をより具体的に観察してあげること。そしてそれについて、「良い悪い」という判断をしないこと。もちろんほめたり、叱ったりすることは大切でしょう。「私は◯◯のことを思って言っているんだ」と。
でも、それって本当に相手のことを考えているのでしょうか。
きっと考えているはずよね。けれど、そこにあるのは人間関係における大事な大事なステップを省いた、一種の自己欺瞞なんです。
「あなたのことを思って言っている」とは、最終的に「私の思うようなあなた」になっているということ。それを相手は絶対に感じ取ります。
そこには、本当の自分を見てくれて、尊重をしてくれている相手は存在しない。自分を対等な、一人の人間として見れていない相手(つまり、自分のことを思っているはずの私)が映っているのです。
こうなると、相手も「この人は私に思い通りに動いてもらいたいだけであって、私自身のことはどうでもいいんだ」と思うようになり、相手も自己欺瞞に陥ります。
僕は、仕事や活動に関わらず、人間関係のあらゆる問題はこのようなところから発生すると考えています。
*リスペクトと愛
話を戻すと、この「認める」という行為のプロセスのどこに人を動かすメカニズムが生まれてくるのかということについてです。
この流れを見てみるとわかるように、「んで、結局人はどう動くの?」という疑問が生じると思います。
実のところ、この行為はそもそも「人を動かす」ことは目的にしていません。
というか、人を動かすことは目的になりえないのです。
目的は、「あなたが相手をリスペクトし、心から愛すること」です。
なんかスピリチュアルな感じになってしまいましたが笑、僕はこれこそが人を動かす、もっと大きくいえば、人間同士が互いにポジティブな影響を与え合うために最も必要な要素だと思っています。
あなたがいるということ。
あなたが今、笑っているということ。
あなたが今、つらくて苦しいということ。
あなたが、こんなことをしてこんなことができるということ。
それに対して、良いも悪いもないんです。それを尊重して、そんなあなた(自分も、相手も)を愛してください。
そうすれば、きっと僕たちは「そんなあなた」という存在に対して、素敵な言葉や、素敵な行動を自ら与えられるようになる。
、、、と、妄想しております。
世界平和になんねぇかなぁ。
てぃおる
「タビ」をする。
以前こんなことを考えた。
「旅旅って言うけど、自分旅で何を得たの?」
「旅旅って言うけど、みんな旅で何を得たの?」
これがまあわからない。実際のところ旅というものが自分に何をもたらしているのかがわかっている人なんてほとんどいないのかもしれないけれど、それでいて旅はなぜこうも多くの人を魅了するアクティビティになりえたのだろうか。
旅をするメリット
旅をするメリットをとりあえずあげてみた。
- 価値観が広がる
- 世界の文化についての知識が深まる
- 楽しい
- 主体性を獲得できる
- 日本ではできない経験が得られる
- 危機管理能力の底上げができる
- 新しい出会い
もちろん他にもあげればあると思うがキリがないし、パッと思いつく範囲でこれらに絞った。
ここでは旅というものを、「ツアー等を組まず、自らの力で目的地に行ったり、したいことをする海外旅行」と定義している。
そう考えれば、世界の文化への見識が深まることや、自らの力で目的地へ行くこと(これが意外に難しい。観光地には、右も左もわからない観光客をカモる悪い輩がたくさんいるのだ)によって、主体性を獲得できることなどのメリットはとても意義深いように感じられる。
しかしながら、この中で僕が一番ひっかかることがある。それは、価値観が広がることだ。
おそらく旅に限らず、留学やワーキングホリデー、その他諸々においても、このようなことを言う人が多い。価値観が広がった、視野が広がった、考え方が変わった、等々、似たような表現はたくさん見てきただろう。
そんな旅を通して得られるものランキング第1位(勝手につけた)の「価値観が広がる」。
果たしてこれはなんだ?
価値観は広がるのか?
価値観という言葉にフォーカスして考えると、価値観とは言葉の通り、ある個人や社会、団体がおく「価値」に対するものの見方である。
例えば牛。日本人個人ベースでみれば、牛肉が好き、牛乳は嫌い、など様々な価値観(好き嫌いも、立派な価値観のひとつである)があり、これがヒンドゥー教を信仰するインド人となると、たちまち牛は神聖なものとなり、牛肉を食べるなんてことはしなくなる。これらが、各々が「牛」というものにおく「価値」であり、これらをまとめて価値観と言うのだろう。
これらが広がるとはどういうことか??
今度は広がるにフォーカスして考える。
価値観が広がるということは、あるものに対する評価(つまり価値を定めること)の幅が広がるということである。
つまり、今まで自分が価値を定めていたものに対する見方が変わったり、それらを含めて別の範囲にまで価値が及ぶことを意味しているということなのだろうか。
だとすれば、具体的に旅をすることによってどのような価値観の拡張が発生するのか??
価値観は深化しているだけ
結論から言うと、僕は旅を通して価値観を広げることは難しいと感じた。なぜかというと、僕の場合変化が起きたのは価値観の拡張ではなく、深化、あるいは同化だったということである。
「旅は価値観を広げる」という一見真理のように見えるこの一般論は、「旅は価値観を広げた!」という旅人たちの経験談によって、逆説的に価値観を画一化してしまう可能性があるということである。
そう疑うようになってから、僕は旅をするのが怖くなった。僕が欲しいのは、きっかけでも、楽しい思い出でも、はたまた絶景を見てあーだこーだ言うことでもない。
僕は価値観を広げたかった。でも変わらなかった。ただ自分が旅に向いていないだけかもしれない。あるいは、人気のあるものに対する反動かもしれない。
とかいって、実はその同化を羨ましく思っている自分がいるのかもしれない。
それらを全て横に置いて考えてみても、僕は旅で何を得られたかって言ったら、これは本当にわからない。
あーわからないわからない。笑
てぃおる
着たい、食べたい、住みたい。
世界で一番頭悪そうなブログのタイトルである自信があります。笑
まあ結論がタイトルなのでもうここからの文章はほぼ読まなくていいかもしれません。
*ミニマリズムって何者
なんでこんなことを書くかっていうと、最近すごい思うことがあるんです。
よくこんな話を聞きます。
「服を選ぶ時間がもったいない」
「食べるものなんて腹が満たされればそれでいい」
「部屋はただ寝るとこだから」
これはいわゆる「ミニマリズム」という考え方と関連しています。
そもそも、こういったミニマリズム(スティーヴ・ジョブズが求めた、余計なものを一切削ぎ落としたデザインのように、装飾的要素を最小限に取り除いた芸術的様式のこと)が普及したのは今に始まったことではなく、厳密に言えば今無数に立っているビル群も、その中の白い壁も、そこで働く無機質な白シャツに黒のスーツを着たサラリーマンも、みんなこのミニマリズムの潮流によって生まれたものです。
最近のライフハックやハウツー系の文章で取り扱われているミニマリズムは、大抵「断捨離」を指していることが結構多いです。(笑)
最初にも書いたように、現代のミニマリズムという言葉には、この断捨離によって何を生み出すのかに重点が置かれているということです。服が毎日一緒なら服を選ぶ時間を生み出せる。毎日ご飯が一緒ならご飯を作る時間、食材を選ぶ時間を生み出せる、部屋で寝るだけならテレビを見たり、そういった何気なくかかる費用も時間も抑えられる。
これによって生み出されるものって一体なんだろう??
*欲求は低次元から満たされていく
ただ、この断捨離、一つ問題があります。
それは、断捨離が目的化して本来の欲求を満たせなくなることであると思います。
「欲求というのは低次元のものから満たされていく」、というのがここで言いたいことになります。(僕はマズローの欲求の五段階説というものに基本的には則っていますが、詳しくはググってください笑)
ここでいう低次元とは、「衣食住」に含まれるような人間が社会で生きていく、また生命活動を維持するにあたって必要不可欠なものであるものを指します。
最近の断捨離においては、これらを必要以上にそぎ落とす、あるいはないがしろにしてしまうようなケースが多いと思うのです。かと思えば、自己実現や尊厳の欲求に対してひたむきに走っている。合理的なのかもしれないが、ベストではない。そんな風に僕の目には映る。
そんなに走って大丈夫? 美味しいご飯食べないの? 好きな番組も見ないの?
*急がば回れ
で、結局何が言いたかったのかというと「急がば回れ」ということです。
無駄を一切削ぎ落とし、一見高次元の欲求に向かって近道しようとしても、やっぱり大変なんですね。
もちろん、イチローが行っている毎朝カレーを食べることのような試みは、無駄を効果的に削ぎ落とし、ルーティーンにすることでパフォーマンスを向上させるというはたらきが間違いなくある試みでしょう。でも、みんながみんな、そうじゃありません。
この低次元の欲求が満たされなければ、高次元の欲求を心の底からは求められない。
衣食住はやはり人々にとって、ある種実践的であり、本質的でもあるのです。
自分は本当に心の底から、カレーが食べたいのか?!
自分が本当に食べたかったのは何?何なの!言ってごらんなさい!!
そうかぁ〜実は俺、チキン南蛮欲してたのか〜 じゃあカレーにチキン南蛮乗せよう!(それは食べすぎ)
でも、それでいいと思うんです。心の底から沸き起こる欲望、普段これを無理してまで削ぎ落としている人は、今一度大切にしてほしいなあって思うんです。
大切な大切な、自分の気持ちだから。
かわいい洋服、かっこいい靴、我慢して行っていないらーめん屋、好きなお部屋のフレグランス、好きなドラマ。
大切にしてみてはいかが?
ぽじてぃぶ。
ポジティブ(positive)……明確な、積極的な、前向きな、肯定的な、等の意味をもつ英語の形容詞。しばしばカタカナ英語としてこれらの意味を包含し、多義的に「ポジティブ」とそのまま使われることも多い。
そのポジティブについてだが、最近気がついた。
結論から述べると、僕はポジティブという言葉がすごい苦手だ。
そう思うのは、いかんせん僕がネガティブな感情に支配されたり、物事に対してネガティブな解釈をしがちであるがゆえに、ポジティブな感情、ポジティブな解釈、ポジティブな思想その他もろもろに余計目がいってしまい、嫌な言い方をすれば暑苦しく感じてしまうから、というのは容易に想像がつく。
……いや、僕はポジティブという言葉が苦手なんじゃない。ポジティブを全肯定する態度が苦手なのだ。
基本的にポジティブな感情や考え方がもたらすものは大きいというのが一般論だ。
人生に生きがいを持つこと、ある物事を否定的にとらえないこと、多少の失敗で落ち込まないこと、などなど、ポジティブな人間の特徴はいろいろある。
そして、そのどれもが「これらの考え方は間違っている」と簡単にはいえないこと。
冒頭にも述べた通り、ポジティブという言葉には「肯定的な」という意味を持つ。
つまり、僕が言いたいのは、ポジティブである状態やその形容そのものに対しても、肯定的な態度をとらざるをえない、ということだ。
ポジティブが最高善だとすれば、否定的態度を寄せ付けないという点において、またそもそもポジティブに物事を捉えたりポジティブな言動をすることによるメリット(詳しくは省く)において、なるほどポジティブとはすばらしいものだと思わされる。
けれど、僕はこのポジティブを肯定することが苦手なんだ。
自分を振り返ってみるとなんとなくその理由がわかる。どうして自分がポジティブになりえないか、どうして自分はネガティブな感情に支配されてしまうのか。
そこにはきっと、自分の成功体験と挫折、そしてその記憶が結びついている。
成功体験そのものは、おそらくポジティブな結果と捉える人間が多い。僕もそのうちの一人だ。ただ僕はその成功体験に固執しないし、事実として記憶にもあまり残っていない。けれど成功しているということは、自分がポジティブな何かをしたからに違いない。
僕の記憶に残るのは、成功体験でも、目標に向けて努力した日々でも、はたまた人生に希望を見出そうとする姿勢でもない。
コテンパンに打ちのめされて、プライドも希望も自信もへし折られて、挙げ句の果てに自分までもが自分自身を傷つける、というある経験に対する解釈である。
僕はいつでもそういう人間だった。悔しい、ムカつく、クソくらえ、無理だ、どうしようもない、そういったネガティブで邪悪な言葉を吐き出しては、自身のプライドは打ち砕かれた、これは挫折なんだ、と解釈することが得意だった。
そう解釈せざるをえないから。「これでいいや」は、本質的にはポジティブではないから。
ネガティブな感情の持つパワーはすさまじい。時にいわゆる「悪」とされるような事件や問題をも引き起こす。ネガティブが悪かどうかは、この感情を人に押し付けるかどうかによって決まる。つまり、ネガティブな感情そのものは、別に悪でもなんでもない。
僕はこのパワーを、知らず知らずのうちにバイタリティに変えていた。見返してやる、自分に復讐する、畜生、そうやってエネルギーを自らの目標にあてがっていた。この流れは、いわゆる「ポジティブな」流れだと思う。
つまり僕という人間は、ネガティブな感情によって自らのプライドをも傷つけ、その反動を利用して自らの成功につなげていたのだ。
バネは縮まないと伸びないのと同じように、人間もボッコボコにされる経験は必要だ。
だから僕は、ネガティブがもたらすものも、肯定したい。ネガティブでも、生きていけるんだ。無理してポジティブになろうとしなくていい。そう最近気がついた。
ポジティブであることだけが良いことじゃない、ネガティブでもいいんだ。
ヘコんでヘコんで、泣いて、さんざん理不尽な文句言って、わけわかんなくなって、それでいいんだ。
いつか谷底にたどり着ければ、あとは登るだけなんだから。
てぃおる
……ちなみにストレングスファインダーは、僕の強みのひとつにポジティブを挙げている(笑)
周りからは「え〜合ってないね〜」と言われるが、実は自分では一番しっくりきている。
ブログ始めますた。
はじめまして。てぃおるです。本名原田透(はらだとおる)です。京都大学に通う20歳の学生をやってます。
以前はFacebookにこんな感じで不定期で自分の体験や考えを投稿していたのですが、あまりにも書きたいことが多すぎて、そして文章を書いている瞬間が単純に楽しくて。
ついにブログ、始めてしまいました。笑
なんで笑がついてるかって言ったら、もともと「ブログ」というものに抵抗と偏見が強くて、「まあ自分はやらないだろう」と勝手に思っていたから。
思考の整理は紙にやったらいいし、アウトプットは何も、ブログでしかできないわけじゃない。
加えてブログという、今まで広く認知されていないプラットフォームに手をつけることそれ自体に、「なんか嫌や」という胡散臭さを感じていたから。
かと思っていた矢先、友人やそのまた友人のブログを読む機会が増え、「なんだ、普通に面白いじゃん」っていう、自分にとっての明らかな接近が起こったわけです。
Facebookにあげる内容はなんとなく体験と密接に関わった内容に比重が置かれすぎて(これは勝手に僕が思っていることなんですが)
完全な妄想や全く別の考えを投稿するなら、この機会にブログくらい始めてやろうという気になったということです。
要はめっちゃやりたかった。だから笑なの。笑
なにはともあれ、僕としては有益なことを発信しようとか、あなたにとって大切な文章をとか、アフィリエイトで人生逆転とか、そんなつもりは全くなく。
単純に文章を書くことで自分の知的欲求を満たすことができ、また自分の将来にも繋がるのでは、と考えその結果たまたまブログに手をつける結果になったということです。
もしお暇であれば、この冗長でなんの未来性もない文章に、お目々だけでも通していただければ幸いでございます。いや、読まなくてもいいか。
てぃおる